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台灣史

(惜別)郭明優さん 「台湾ラーメン」生みの親・台湾料理店「味仙」創業者

■故郷の味、刺激ピリッと全国区
3月29日死去(多臓器不全) 82歳

5月末、名古屋で用事があり、夜に今池の本店へ立ち寄ったが、週末の観光客の大行列で入るのを諦めた。コンビニでお茶を買うと、目立つ場所で「台湾ラーメン味」のベビースターが売られていた。生前何度か在日台湾人に関する記事のためにインタビューをしたが、郭さんが語った言葉を思い出した。

「台湾ラーメンの商標はあえて取らなかった。みんなに真似(まね)してもらい、台湾の名前が広がるのがうれしいから」

いま日本中で「台湾ラーメン」を食べることができる。派生版の「台湾まぜそば」も。その味は郭さんの厨房(ちゅうぼう)から生まれた。やがてB級グルメと激辛ブームに乗り、「台湾にない台湾ラーメン」は全国区へ。もし郭さんが商標を取っていたら、その名と調理法はここまで広がらなかっただろう。

戦前日本に移住した台湾人の両親の間に生まれ、名古屋で育った。傾きかけた親の店をあえて継ぎ、店名を味仙(みせん)に変えた。台湾籍だが、台湾で育ったわけではない。故郷の味を求め、台湾へ通った。1972年、「担仔麺(タンツーメン)」という庶民の麺に出会った。鶏ガラスープ、太めんの上にミンチ肉とニラが乗っている。シンプルなおいしさに感動を覚えた。

「この味を持ち帰ろう。でもあと一工夫、日本人には必要だ」と考え、たっぷりの唐辛子でミンチ肉とニラを炒めてからめんに合わせた。今池は労働者の街。刺激あふれる味が受け、店の定番に。味修行の甲斐あってメニューに台湾料理がずらりとそろった。弟妹たちも支店を開き、名古屋に「味仙」の名は響き渡った。口数は少ないが兄貴肌で面倒見が良く、郭さんを慕う地元の経済人も多かった。

安藤百福氏の日清チキンラーメン、大阪の蓬莱551の豚まん、朱華園(しゅうかえん)の尾道ラーメン。半世紀の統治を経て、台湾出身者を通して根付いた「味」が日本にはいくつもある。料理に国境はない。それを成し遂げるのは、越境の料理人たちだ。

昨年11月、日台関係をテーマにした私の講演会に招いていた。直前に入院が決まり、「また企画してください。必ず出ますから」と電話口で言ってくれたが、約束はかなわず、逝ってしまった。郭さんの料理は名古屋メシの代表格となり、台湾の名を広め、日本の食文化を革新した。その功績はもっと知られていい――。講演会で、そう郭さんの前で語りたかった。

原文出處 朝日新聞(元朝日新聞台北支局長・野嶋剛)