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時評

小倉孝保 : <14>京都のイメージと吉永小百合にあやかり芸名を変更する


初代一条さゆりは芸名を「赤羽マリ」から「リオ椿」、しばらくして「一条さゆり」に変えている。「京都」のイメージが付くように「一条」、吉永小百合の人気にあやかり「さゆり」とした。

「デビューして2年(1960年)くらいで余裕が出て、3年目には新人に踊りを教えたりしていました」

そのころ関西で、踊り子が全裸になる「全スト」や陰部も見せる「特出し」と呼ばれる芸が生まれている。それ以前のストリップは最初の1曲は踊りだけ。2曲目で着物を脱ぎ始め、3曲目の最後に裸となって終わっていた。

「全スト」「特出し」の場合、3曲目は最初から全裸である。陰部まで露出する踊り子も出てくる。そうした「芸」がいったん登場すると、客はそれまでのストリップでは飽き足らず、「出し惜しみするな」とヤジを飛ばすようになる。

関西系ストリップは一気に東京に押し寄せ、「関西系オープン」といった看板を掲げると客が入るようになる。一条も60年以降、関西の劇場との縁が強くなった。彼女の気さくなキャラクターは関西人に受けた。

「お客さんをからかう余裕が出てきたのよ。あたしが足をこっちに向けると、お客がそっちにざーっと動く。次にもう一方に腰を動かすと、お客さんがその方向にざーって。後ろのお客は、それを見て笑ってた」

そのうち調子に乗ったのか、興奮が抑えられないのか、自らも舞台に上がろうとする客も出てくる。その客のネクタイを別の客が引っ張り、引きずり下ろす。まるで喜劇だ。一条が劇場経営者に、「あんた、お客さんに波打たせてたな」と言われたのもこのころだった。

62年に映画「キューポラのある街」が大ヒットした。主演は吉永小百合。舞台となったのは一条の生まれた埼玉県川口市である。東京、横浜、大阪の劇場に出演していた一条は映画の看板を懐かしそうに眺めていた。踊りは板についていた一条も、私生活では困難も多かった。

■夫と大げんかし線路に飛び込む

「稼いだカネを夫がパチンコ、競艇に使っていたから」

妻の「特出し」を夫が喜ばなかったのかもしれない。一条は国鉄(現JR)大船駅で夫と大げんかし、「死んでやる」と言って線路に飛び込んだ。ちょうど電車がやって来た。幸い体はホームと電車のすき間にすっぽりと入り、無事だった。

「(夫は)女癖の悪い男やったからな。それが原因やったと思います。けんかになって『死ね』って言われたんで、『じゃあ、死んでやる』って」

夫とはその後、別れた。一条は東京を離れ、大阪・新世界の芸能事務所に所属する。一条が大阪に馴染み、「特出し」度合いを深めるにつれ、警察は彼女に狙いを定めるようになる。 =敬称略、つづく

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原文出處 Nikkan Gendai