ウクライナで生活していた旧樺太(サハリン)残留日本人の男性が19日、戦禍を離れて祖国に帰ってきた。これまで、第二次世界大戦とロシアのウクライナ侵攻という2つの戦争に翻弄された男性。男性は成田空港で日本の家族と抱き合い、「きょうだいと互いの近況を語り合いたい」と笑顔を見せた。
旧樺太で灯台守をしていた父を持つウクライナ国籍の降籏英捷(ふりはた・ひでかつ)さん(78)は母の実家がある長野県で生まれると、まもなく、旧樺太へわたった。
終戦後、樺太は旧ソ連に占領されたが、一家は兄のけがや妹の出産などもあって引き揚げができず、ソ連政府から帰国も許されなかった。一家は1954年にソ連国籍を取得、降籏さんは製紙工場技師を経て、71年からはウクライナ西部ジトーミルで機械製作関係の仕事に就いた。その後、きょうだい5人は相次いで日本へ帰国したが、降籏さんは家族の意向でウクライナに残っていた。
2003年に定年退職した後は悠々自適の生活を送っていたが、2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻で一変。穏やかな日常は壊された。「理由のない攻撃だった」(降籏さん)
ロシア軍の攻勢は激しく、自宅近くのアパートにも爆弾が落ちた。妻と長男を亡くし、一人暮らしの降籏さんは、孫のデニスさんから日本政府が難民を受け入れていると聞いて日本に向かうことを決意する。今月5日午後、日本大使館のあるポーランド・ワルシャワへ親族の車で出発。約650キロの道のりを進んだが、車が故障したり、渋滞に巻き込まれたりもした。
戦時下の治安悪化で強盗の不安もあり、妹の畠山レイ子さん(70)は「電話が通じず、すごく心配だった」と振り返る。
この間、日本では、樺太在留日本人への支援を行う日本サハリン協会が降籏さんへの募金を呼び掛け、19日までに約200人から支援が寄せられた。
降籏さんはようやく9日、ワルシャワに到着。18日夕刻に現地を発ち、19日午後、約20時間の搭乗を終えてデニスさんの妻、インナさん、孫のウラジスラワさん、ひ孫のソフィアさんと成田空港に降り立った。
兄の信捷(のぶかつ)さん(80)とレイ子さんに迎えられた降籏さんは2人を抱きしめ、久々の再会の喜びをかみしめた。
人生のほとんどを海外で過ごした降籏さんは日本語が話せない。旭川市内で1週間の待機期間を送り、その後の過ごし方は家族と協議するが、「状況が落ち着いたら人生の大部分を過ごしたウクライナへ帰りたい」という。デニスさんは町の防衛のためにジトーミルに残っている。「ウクライナの市民にもロシア軍にも多くの犠牲が出ている。ロシアが憎い」と憤った。
原文出處 產經新聞