鹿児島県・奄美大島沖で、北朝鮮の工作船が海上保安庁の巡視船と銃撃戦の末に沈没した2001年の事件から22日で20年になる。当時の状況をよく知る海上保安庁関係者3人に話を聞いた。第1回は、事件当時、巡視船「みずき」(195トン)の主任航海士として工作船と対峙(たいじ)し、今も日本海側の海の守りの一翼を担う浜田海上保安部(島根県浜田市)の松本実部長。
「緊急出港するので出勤せよ」
事件が発生した22日午前2時ごろ、自宅にいた松本さんは呼び出しを受けて、「みずき」の拠点だった福岡海上保安部の庁舎に向かった。「東シナ海は遠いですね」。庁舎内の打ち合わせで、場所が東シナ海だと知った。不審船情報の確認をするために日本海などを航行したことはあったが、工作船に出会うことはなく、その後に銃撃戦となることは想像もしていなかったという。
ただ、堀井和也船長は「やばいから近づくなよ」と慎重に行動することを求めた。夜明け前に出港すると波が4~5メートルもある大しけで、シートベルトをしていないと座れないほど、船は大きく揺れた。机上で海図にコースを引くことも困難で松本さんは、床に腹ばいになって現在位置などを書き込んでいた。食事を作る主計士も料理が満足にできず、炊き込みご飯を作っていたが、船内の揺れが激しく食事を取れた人は数人だった。
ほぼ半日後の午後4時ごろ、不審船に追いついた。先に到着していた「いなさ」(180トン)などが見えたので追跡していることは分かった。近づいて船尾を見ると観音扉が見えた。「本物の工作船だ、危ない」。赤外線映像を見ても普通の漁船ならあるはずの位置に熱源となるエンジンがない。「拉致とかに使われた船かもしれない。普通の漁民じゃない」と松本さんたちに緊張が走った。
「不審船」に対して、逃走を阻止するため「みずき」も航海に必要な人員以外は射撃に対応するための配置となった。これまでに集中的に訓練していて射撃には不安はなかった。船首へ向けて射撃、手続きも動作も訓練通りだったが、不審船からは反応がない。「普通なら威嚇射撃の段階で止まるはずなのに」。平然と走る姿には違和感が残った。
射撃で船首部分の荷物に火がついた。「漁船なら、あそこに可燃物はないのだが……」甲板に出てきた不審船の乗組員は毛布のようなものを持って消火にあたり、(風上に船尾を向け)後進をかけて火を消し止めた。訓練を受けているのかと思うほどの手際よさに普通の船ではないことを改めて実感した。
追跡は夜も続いた。「みずき」が次の射撃の準備をするため不審船から離れていた午後10時過ぎ、ともに追跡していた「いなさ」「きりしま」「あまみ」の3隻と不審船が銃撃戦となり、「あまみ」の乗組員が負傷していた。現場から離れていた「みずき」からは詳細は分からなかったが、戻ると不審船の姿はなかった。北朝鮮の工作員は、救助中に自爆するケースもあるためボートを下ろしての救助などはできなかった。
燃料が少なくなった「みずき」は、速度を抑えめにして鹿児島へ向かった。途中で現地を管轄する第10管区海上保安本部(鹿児島)から、家族へ連絡するように指示があった。海上保安官は巡視船艇などの位置を外部に教えないことが原則だが、この時だけは特例だった。「ニュースでやっていた事案に対応していたが無事だ。これから鹿児島へ戻る」と船舶電話で家族に伝えた。
事件後5年以上が経過したある日、松本さんは横浜の海上保安資料館横浜館で展示されているかつての不審船を間近で見た。船体には弾痕もはっきり残っていた。「穴は思ったより大きく、浸水しただろう」。引き揚げ後、弾痕から浸水し、通常より船が沈んだ状態だったことが明らかになっている。
松本さんが部内研修で工作船事件のことを話すと、若い海上保安官は目を輝かせて聴き入るという。工作船を引き揚げたことで解明されたことも多いが、乗組員が海に消えたため、謎も残っている。松本さんは事件を振り返って「(実際には困難だったが)一人の海上保安官としては、逮捕して全容を解明したかった」と語った。
北朝鮮工作船事件
2001年12月22日、防衛庁(現防衛省)からの通報で、漁船に偽装した北朝鮮の工作船を海保が鹿児島県・奄美大島沖の東シナ海で確認。停船命令を無視して逃走したため、漁業法違反(立ち入り検査忌避)容疑で追跡し、巡視船が船体射撃した。工作船から自動小銃やロケットランチャーなどで巡視船を攻撃され3人が負傷。巡視船が正当防衛射撃すると、工作船は自爆とみられる爆発とともに沈没した。
翌年の9月11日、工作船は引き揚げられ、船内の小舟や武装が明らかになり、直後の日朝首脳会談で金正日総書記が工作船と認めた。任務は覚醒剤の密輸や工作員の送迎とみられる。過去に薬物密輸事件で海上自衛隊に撮影された船と同一船でもあった。
工作船は現在、海上保安資料館横浜館(横浜市中区新港1)に、銃撃された巡視船「あまみ」の船橋部分は海上保安大学校(広島県呉市若葉町5)に展示されている。
原文出處 每日新聞