夏の甲子園を制した元主将が、強盗致傷事件の被告として法廷に立った。全国制覇から事件を起こすまでの期間はわずか。端的でよどみない口調は「高校球児」の面影もあったが、判決は「十分な反省がない」として実刑を言い渡した。栄光から転落に至るまでの経緯はどのようなものだったのか。
2021年1月19日、千葉地裁での初公判。紺のスーツに身を包んだ20代の被告は、共犯とされる男3人とともに法廷に立った。裁判長に起訴内容の認否を問われると、「(強盗致傷罪は)認めます」と前を向き、明朗な口調で答えた。
起訴状によると、19年4月26日夜、4人は共謀して犯行に及んだ。千葉県八街市の住宅のインターホンで「塀に車をぶつけてしまったので、見てもらえますか」とうそを言い、玄関から出てきた男性(当時59)の頭を背後からバールで殴打して頭蓋骨(ずがいこつ)骨折など全治約3カ月の重傷を負わせたとされる。さらに家の中に押し入り、男性の妻(当時58)を羽交い締めにして口を粘着テープでふさぎ、ナイフを突きつけ、額に全治約10日の切り傷の軽傷を負わせたという。金品を奪おうと物色したが、妻が悲鳴を上げ、近所の住民の声が聞こえたため、何もとらずに逃げた――。
事件から約8カ月後、4人は強盗致傷、住居侵入、窃盗容疑などで逮捕、起訴された。
検察側の冒頭陳述や、被告人質問でのやりとりで事件に至る経緯をたどる。
東京都町田市で生まれた被告は、小学2年から、父親がコーチを務めるチームで野球を始めた。中学では主将を務め、高校は埼玉県内の強豪校にスポーツ推薦で進学。100人を超える部員がいるなか、1年秋からレギュラーをつかむと、2年時は春夏連続で甲子園に出場した。「体は小さいが、ファイトあるプレー」を買われ、最終学年では監督や上級生の「満場一致」で主将に任命された。最後の夏、埼玉県勢初の夏の甲子園優勝を成し遂げた。
原文出處 朝日新聞